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[第26回] 訳語の選択


ミス・ブーランの新しい1日??

みなさん、こんにちは。校閲担当のIです。

やや古い話で恐縮ですが、1992年に日本のロックバンドであるサザンオールスターズが北京にやってきてコンサートを行ないました。それを記念して中国で発売されたベストアルバムの収録曲「ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)」の対訳は「布朗小姐新的一天(ミス・ブーランの新しい1日、「布朗」は「BRAND」を人名と誤認した音訳)となっていました。

歌詞の内容はいつも流行に追われている若い女性たちを揶揄したものなので、対訳は「追求新潮的小姐」(ちと古い表現ですが、1992年当時なら通用するかも)とでもするのがより歌詞の内容に近いのではと思います。この対訳の翻訳者が歌詞の内容を理解しないで訳出した可能性が高いのですが、校閲時に似たような(歌詞の校閲経験はさすがにありませんが)事象に当たることがあるので、今後も「布朗小姐」を他山の石としていきたいと思います。

さて今回は、前回お話した校閲者としての経験談の第二弾、「訳語の選択」についてお話します。

コーパス

前回のテーマ「日本語として不自然な箇所を発見し修正する」作業にある程度慣れてきたOJT後半で、新たに「翻訳文中の訳語が正確かどうかチェックして、必要であれば修正するように」という指示がありました。また、この日からトレーニング用の紙に書き込むのではなく、パソコン上で校閲用エディタソフトを起動して、セット済のトレーニング用ダミー文献を修正する、すなわち実作業とほぼ同様の環境に移行しました。

ここでOJT担当者から「コーパス」のURLを提供され、このURLへブラウザでアクセスしてみると、「中文(中国語)」「日本語」「IPC」などの項目名が振られた検索ボックスが用意されたページが表示されました。

コーパスとは元来、言語処理の研究用に特定言語の文章を集積したものを指しますが、翻訳業界では狭義に「対訳データ集」の意味で用いられることが多いようです。(似たようなものに「翻訳メモリ」というものがあります。) プロジェクトによって異なることもありますが、私が従事していたプロジェクトではお客様(クライアント)からコーパスが提供されていました。

提供されたコーパスは、日中いずれかの単語又は文章の一部などを検索ボックスに入力して検索すると、検索結果がブラウザ上に日中セットで表示されるようになっていました。

コーパスは「辞書」ではないのですが、過去の翻訳データを検索でき、それによって「この語句は過去の文献ではこのように訳出した」ことを確認できるため、私はこの時点では「辞書」あるいは「答え合わせ」のようなものと勝手に認識してしまいました。なるほど、これで簡単に答え合わせできるのなら、採用面接で専門知識の有無を問われなかったのも道理だな…と。

ところが、「答え合わせ」のつもりで使用してみると、落とし穴が待っていました。

コーパスの「落とし穴」

特許文書の校閲は、「特許文書の習熟者」又は「ある特定の分野の有識者」が従事することがほとんどのようですが、私自身はどちらにも該当しません。したがってこの時点では、中国語以前に日本語の専門用語(技術用語)の知識が非常に乏しい者が特許校閲を行なうという、本人ならずとも不安になるような状態でした。

ここでコーパスを与えられ、実際に技術用語を検索してみるとその訳語を含む過去の訳文がずらりと表示されるので、前章の最後のような感想を得て安心したことを覚えています。

さっそくダミー文献の校閲を開始しました。文献は海底油田に関するもので、採油に使用する「管」の損傷を補修する道具に関する特許権を求める内容だったと記憶しています。

この文献中に、下記のような文章と訳文が登場しました。(あくまで文例ですので、当時実際に校閲した文章ではありません。)

原文(中国語) 訳文(日本語)
该发明有效解决了目前油田普遍存在的套管破损问题。 該発明は、油田に現在広く存在するカニューレの損傷の問題を効果的に解決する。

文章自体は(特許文書としては)平易なもので、一般的な中国語のスキルでも訳文に誤訳がほとんど存在しないことは見て取れました。

ただ原文の「套管」がよくわからなかったのでこの二文字をコーパスで検索すると、「カニューレ」を含む文章が多くヒットしたため、問題ないと判断して「カニューレ」としたまま完了させてOJT担当者に提出しました。が、OJT担当者から数分後にダメ出しが出ました。すなわち「カニューレ」ではダメ、とのダメ出しです。

OJT担当者から「この『カニューレ』、実際にはどういう意味の言葉なのか確認してみて」と言われてネット検索した結果を見て私は文字どおり赤面しました。そこには、

カニューレ(かにゅーれ、cannula)とは、心臓や血管、気管などに挿入する太めの管のことである。
(看護辞典用語「ナースpedia」より)

と記載されており、つまりカニューレとは「医学用語」であって文献の舞台である「海上油田」にはマッチしない語句だったのです。もちろん、文献によっては例えば「海底油田作業員の窒息時に鼻腔に挿入するカニューレ」である可能性もあるのですが、この文献においては文意上「カニューレ」は100%あり得ませんでした。

ここで思い知らされたのは、訳語(ここでは「カニューレ」)の正確な意味を理解しない状態で無批判に採用してはならない、ということでした。私は、訳文が日本語としては意味が通り、またコーパスに「カニューレ」が登場した、という先入観(一種の正常性バイアスでしょうか)が働いた結果、「訳語候補の正しい意味を確認する」作業を怠ったのですが、この「確認」の重要性を強く認識させられました。

落とし穴の埋め方

前述したようなミスを犯さない、つまり自分が陥りそうな落とし穴を未然に埋めておくにはどうするか、OJT担当者は以下の3つの手段をレクチャーしてくれました。

  1. 訳語、特に自身が正確な意味を理解していない語句の意味は正確に調査する。
  2. 複数の訳語を有する語句の「正確な訳し分け」を意識する。
  3. コーパスの「IPC絞り込み」機能を活用する。

A.は、「カニューレ」の失敗例でお話ししたとおりです。

B.は、今回例に挙げた「套管」はユーザー参加型中国語辞書サイト「北辞郎」によると

  1. <機械> スリーブ、入れ子、套管、ブッシング
  2. <医学> カニューレ
  3. (油井の) ケーシングパイプ、ケーシング管、ケーシング

の、3つの訳語を有します。今回の文献は「海上油田」に関するものなので、可能性が最も高いのは「ケーシング」、最も低いのは「カニューレ」であると判断できます。

これ以降、原文の単語が複数の訳語を有する可能性を意識して「コーパスでヒットしたからと言ってそれだけで正解とは限らないから念のため他に訳語がないか確認する」ようにしたため、このようなミスの発生が減少しました。

C.は、やや専門的になりますが特許文書は「国際特許分類(IPC)」によって分類されています。技術分野(化学、電気、機械など)や発明の形態などによって発明内容を細分化し、アルファベットと数字の組合せによる「IPC記号」を振るための分類です。

詳細は省きますが、今回の例で言えば「海上油田のケーシング」に関する特許文献は、「機械工学」又は「固定構造物」に関することからIPCの筆頭に「F」か「E」が付与され、「カニューレ」は「医薬系」に関することから同じく「A」か「C」が付与されている(はず)なので、作業中の文献に明記されているIPCを使用してコーパスで絞り込みを行ないます。具体的には、例えば「套管」+「(IPCが)F」のように検索すれば、「カニューレ」のヒット数が激減し「ケーシング」が圧倒的に多くなり、ここからも「カニューレ」は訳語として不適切との見当をつけることができます。私はコーパスで検索する際にこのIPCの入力を省いたので、「カニューレ」を含む文献も多くヒットし表示されてしまったのでした。

これらA.~C.を組み合わせることによって、医学用語や油田採掘用語(?)の知識がなくても、一定程度までは正確な訳語に到達することが可能になる、とOJT担当者から教わりました。実際、実作業(生産)に移行してからもこれら手段はあらゆる局面で有効で、これら手段は前職を「卒業」するまで私の訳語選択時の基本であり続けました。

今回学んだこと

このことから、特許文書翻訳文校閲の基本「その2」として

その訳語が正確かどうかを調査し「根拠」を得る

ことが必要である、と学びました。

特許文献は「権利」を求める書類ですから、この場合「カニューレ」と訳して(校閲して)しまうと、権利の範囲が変わってしまう(=権利者の意図と異なる)ことになります。それを水際で防ぐのも校閲者の責任なので、その意味では当時の私のように専門知識が少ない校閲者にも有識者同等の高い訳語選択基準が求められます。

専門分野の訳語選択は確かに難易度が高いのですが、与えられたツール(コーパスなど)を適切に活用し、ネット上の信頼できるサイトなどから正確な情報を得て、訳語選択における「根拠」を確立することによって、私や私の仲間たちは有識者に類似する校閲力を身につけていったのでした。(もちろん、作業効率や深い専門性の部分では有識者に到底かないません。)

さて、前述のダミー文献、実はダメ出しされたのは「カニューレ」だけではありませんでした。それがどのようなダメ出しで、またどのように克服したかについては、次回お話したいと思います。


筆者プロフィール

東京出身。

中国語に関心を持ったのは、小学校時代に転居先の東南アジア某都市で華僑宅にあった華字新聞やカセットテープの歌詞カードの中国語を見て「漢字だけで全部表現できるなんて面白い言葉だなぁ」と思ったのがきっかけ。

以来、中国語との付き合いは数十年。「語学は、長く関わっているだけじゃ上達しない」ことを実感。